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第13回 受賞者のプロフィール 受賞者のスピーチ 選考経過 ノミネートされた作品
           
 

第13回pcjf賞・受賞者のスピーチ

 
           
  半田 滋さん  

半田 滋さん
◆東京新聞編集委員

 
         
   

自衛隊はどこへ?

   
           
 

「防人考」は、湾岸戦争の時、自衛隊って何だろう?と連載を開始、カンボジアに派遣された時とか、過去に数回連載しました。ところが近年、海外派兵が珍しくなくなりやめたのですが、今回はイラク派遣でのアメリカとの関係など本質的なことを調べ、連載しました。
まず1月には昨年6月にイラク派遣から帰ってきたばかりの陸上自衛隊員を取材しました。自衛隊が安全に活動するためにODAをうまく活用していることも紹介できました。3月には航空自衛隊のイラクでの活動を載せたのですが、日本がつくった格納庫にアメリカの燃料や航空機も入れている。政府が安全だと言うクウェートからの航路で自衛隊機が実際に何度も襲われているのです。
このような海外派兵を日本はどのように認めているのか、われわれの代表である国会議員がどのように決めてきたか、政治部の協力を得て、自衛隊派遣の舞台裏を書きました。決定がなされた時の陸上幕僚長に直接取材し、シビリアン・コントロールの問題も取り上げました。
まだ最後の5部が出ておりませんが、自衛隊はどこへいくのかを締めで書くつもりでおります。
自分としては当たり前に取材して、あまり知られていないことをまとめたものですが、こうして賞をいただけたことを光栄に思います。実は連載の最中に父が倒れ、病室にパソコンを持ち込んでまとめた経緯があり、父が後押ししてくれた気がします。

 
           
           
  本島 和人さん        
   

本島 和人さん

◆飯田市歴史研究所調査研究員
 
         
   

満州移民の記憶を伝える

 
           
 

この本は5人で書きましたが、代表で挨拶いたします。飯田市歴史研究所は飯田市が設置し、発足から5年目を迎えるところです。新しい地域社会文化を創造することを目的としています。
飯田下伊那は最も多くの満州移民を送りだした地域です。8,300を超える数は当時の住民の4.4%をしめるものでした。しかし、1945年、ソ連軍の侵攻と敗戦の混乱の中で多くの方々が犠牲になりました。特に飯田下伊那の場合には農業移民として送りだされた半数が犠牲になりました。帰国できなくて中国に残った方も多く、今もこの辛い記憶を抱えたまま暮らしておられます。
この記憶を日本の現代史の中に位置付けたい。また、中国との関係の中で新たに満州移民を捉えなおしたい、こういう思いからこの企画が出てきました。
同じ飯田下伊那の中で、移民が比較的多かったところ、少なかったところ、集団自決で全滅に近いところがあります。村々によって違いがある。それは何なのだろうか? それを知りたくて、体験された方々の語りに耳を傾けたのです。その平和への思いを若い人たちにも知っていただきたいと思います。
この賞をいただき、多くの方々にこの本を知っていただけたとありがたく思っております。

   
           
         
       
 

金城 雅春さん

◆沖縄県ハンセン病証言集編集総務局長
 
       
 

発症も戦争が一因

 
         
 

 この証言集は、病気が治っても病院にいるハンセン病元患者が組織している自治会がつくりました。
ハンセン病裁判の判決が出たのが平成8年ですが、沖縄については書かれていない判決でした。沖縄も本土と同じようなことがあったのだという記録を残したいと、5,6年かけて調査しました。
患者は病院という囲いの中で生きてきたのです。そのためジャーナリストの方々も書いていません。裁判が始まって療養所のある地方の新聞では報道されましたが、全国紙は判決が出るころから書き出したけれど、沖縄についてはほとんどない。
そこで、すべてのハンセン病入所者から聞くことにしました。小さな県の沖縄に2つも療養所があります。沖縄の入所者で「ハブより人が恐い」というお年寄りがいます。そのくらい偏見による迫害を受けてきました。
そういうこともあって、みなさん、口が重かった。自分の被害をなかなか語ってくれない。調査員の方々は苦労しました。通って通って友だちになるまで5年という歳月がかかった。国の政策で子どもをつくらせない。できた胎児は強制的に堕胎させた。そういうわけで入所者には子どもも孫もいません。それと戦争による影響が大きい。戦争で栄養失調になり抵抗力がなくなり、発症の要因になった。
今は栄養状態もよくなり、沖縄では新発症患者はゼロです。この本をもっと広めていかなければと思います。

   
         
         
  金子 敦郎さん      
 


金子 敦郎さん

◆大阪国際大学名誉教授・元共同通信ワシントン支局長
 
       
 

圧倒的多数が損をする戦争

 
         
 

 こういう賞をいただき、もうひとがんばりしなければという気持ちです。
この何十年間、世界をそれなりに見て参りました。長年原爆問題の取材をしましたが、特に専門というわけではありません。昭和10年生まれで、戦争は嫌だということが染み付いている世代です。そんな立場でベトナム戦争を取材し、あちこち海外を取材し、圧倒的多数の人が損をすることを嫌というほど感じました。
それで、「唯一の被爆国」と言いながら日本人は原爆ときちんと向き合ってこなかったのではないかと心に引っ掛かっており、昨年、少し時間ができたのでまとめました。こんな本、売れないと言われたのですが、久間防衛大臣の失言もあったせいか少し出ました。
原爆問題は8月になるといろいろ議論になりますが、過ぎると終わってしまう。しかし、戦後の国際問題は広島・長崎の原爆問題から始まったと言っていいと思います。そんな思いをまとめたのがこの本です

   
         
         
  熊谷 徹さん      
 

熊谷 徹さん

◆フリージャーナリスト(メッセージ)
 
       
 

過去と向き合う

 
         
 

このたびは、身に余る賞を有り難うございました。とても光栄です。
私は17年前からミュンヘンに住んでいます。1989年にNHKスペシャル「過ぎ去らない過去」の取材を西ドイツとポーランドで3ヶ月にわたり行って以来、20年近くドイツ人の過去との取り組みについて取材してまいりました。ドイツだけでなく、イスラエル、ウクライナ、ベラルーシ、アメリカでも調査を行いました。
この問題については、テレビ番組や記事として何回もレポートしてきましたが、日本ではあまり反響がありませんでした。このため今回の奨励賞をとても嬉しく思っております。
ドイツ人の過去との対決には、終わりがありません。彼らの執念には、ときどき驚かされることがあります。今日の多くのドイツ人は、過去を水に流してはならないと考えているようです。今日ヨーロッパは政治的、経済的な統合を深めていますが、その中でドイツは重要な役割を果たしています。ドイツが過去の問題と真剣に取り組まなかったら、周りの国々の信頼を得ることはできなかったでしょう。
私が「過ぎ去らない過去」というNHKスペシャルの取材を担当しなかったら、この本は生まれませんでした。私に取材の機会を与えて下さったのは、NHKの関藤隆博プロデューサーです。関藤さんは、残念ながらこの本を見ることなく亡くなられました。しかし私は、今回の奨励賞を、関藤さんと共同で受賞したと思っています。(ミュンヘンにて)

   
         
         
  水島 宏明さん      
 

水島 宏明さん

◆日本テレビ放送網ディレクター
 
       
 

働き方がおかしい時代

 
         
 

「ネットカフェ難民」は、格差社会の広がりで家にも住めず、日雇いという新しい労働形態を取りながら、宿を転々とする現象を撮影したもので、裁判で争うという辺りまでをまとめたものです。
これは平和とあまり関係がないという気がしたんですが、取材して分かったことは、我々にとって働く場というのは大事なんです。日雇いや偽装請負で働く若者を取材したのですが、ある若者の部屋へ行くと、最近「しんぶん赤旗」をとるようになったが、棚には小林よしのりの本が並んでいた。右翼と左翼が同居している。
この状況を調べてみると学歴的にも恵まれていない、職業も最初から派遣的なものだったりしている。過酷な日雇い派遣の現状と右傾化が広がってきていることとは無縁ではないのではないか。今、働き方がおかしくなっていることを告発した番組が、平和と協同の奨励賞をいただけたことを嬉しく思います。

   
         
         
       
 

林 えいだいさん

◆記録作家
 
       
 

筑豊に腰を据えて

 
         
 

 家は奈良時代からの神主ですが、親父はシベリア出兵のとき、反戦闘争で軍法会議にかけられ、過酷な営倉に入れられた。それで帰ってから神主になった。武運長久を祈願しにきた出征兵士達に父が「払いたまえ」をやる、町長が「名誉の戦死をしてこい」と挨拶した。その時、父が「妻子のもとに帰って来い」と言った。すると夜、特高が親父を連れていってしまった。一週間で帰ってきたんですが、爪がなかった。千枚通しで拷問されたんです。その一週間後、父は亡くなった。検屍の軍医が父の従兄弟で何の問題もなかったけれど、レッテルは一生ついてまわったのです。ところが小さな村に神主がいなくなり、出征兵士を送り出せないので、小学校4年生で神主をやりましたが、非国民呼ばわりされました。
戦後、東京の大学へ行ったのですが、やはり筑豊の炭坑に入ることにしました。すると翌年、落盤事故が起こりました。それでもとことん筑豊に腰を据えて、74歳になりました。賞をいただいたので、さらにがんばろうと思います。

   
         
         
       
 


山秋 真さん

◆ライター
 
       
 

原発の重い部分

 
         
 

 この度は市民のみなさんの貴重な賞をいただきましてうれしく思います。
大学卒業のころ、珠洲の市長選がありまして、それに関わって珠洲のみなさんに育てていただきました。
珠洲の原発計画は28年間続いたのですが、計画が動き始めて、住民との対立がおきてからは12年くらい経っています。当時、大学卒業する前後の若者が選挙事務所へ行くと、高校生もいて、その人たちとも友だちになれ、今につながっています。
東京にいたときは原発の危険性とか安全性とかの議論が主で、そのなかでこぼれ落ちているものがあった。珠洲での見聞きは原発問題の一番重たい部分に触れることができました。
私は13年間、見て聞いたことを書きましたが、当事者たちは語る言葉を持たなかったり、語りたくても向き合えないという人もいます。私は今後を待とうと思っています。
この本は電力を使う都市の高校生にも分かるように書いたつもりですので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

   
         

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